タバコの吸い殻ポイ捨て行動について考えるの巻

「洗 心」(心からイライラした気持ちをきれいに洗い流す)


2022年12月16日(金)  kumanoayu


写真① バトンタッチ(ドウダンツツジから山茶花へ季節の移ろいを感じます)


 しばらく安威川から遠ざかっているので少し残念で寂しい気持ちがします。
その間に巷はいよいよ本格的な冬を感じさせるようになって来ました。


最近の安威川ではボランテイアの皆様の一層のご活動でしょうか、ことさら大きなボトルとか、空き缶、大きな捨てられたゴミ袋の類は殆どと言っていいほど目に入らなくなっています。一時的な現象か、はたまた私が通過する前に他のボランテイアの皆様方がいち早く処理をして下さったのではないかと思います。
感謝、感謝です。


しかし「タバコの吸い殻」だけは毎日のように拾っても、拾っても、ところかまわずポイ捨てされています。
これを根気よく拾うのはボトルなどと違って物が小さいので、ゴミ袋もごく小さめで済みます。楽と言えば楽なのですが、私の散策の片道5km、往復10kmの区間でほとんどの道中に平均的に捨てられています。
捨てる人はボトルのように大きなゴミでないので、あまり悪いという気持ちが無いのでしょうか! 気軽に当たり前という文化の気持ちなのでしょうか!


自動車の窓から捨てている光景もまだまだ散見します。交差点で停車した時にドアを開けて備え付けの灰皿から路上に捲き散らかす輩もいます。
◆ 輩(よくない連中。行儀を知らぬ)


写真② 高槻市北部の芥川緑地公園付近から北方向を見る。(山裾を新名神高速道路が東西
    に走り、その向こう北側がポンポン山方向です)


自分の車の中はきれいに保ちたい、常に車をきれいに大事に思う気持ち」の表れなのでしょうか。一方の見方としては「とても車思いの良い御心」ということだと思います。自家用車も大事にしてもらってとても幸せです。
そして自分の屋敷内では巻き散らかしたりしていないでしょう。車と同じようにお家や、屋敷内をきれいに保っておられるのではないでしょうか。
この様なお方達は「あの方はお家や車を大事にきれいにされる立派なお方ですよ」と近所の良い評判だろうと思います。決して「」とは呼ばれていないことでしょう。
立派なお方達は人目に付かないところで堂々とポイ捨てをしていても良いのでしょうか?


写真③ 京都山科区の華頂山・元慶寺にて写す。
「洗 心」(心からイライラした気持ちをきれいに洗い流す)と言う言葉を連想する写真
です。
川野泰周様(林香寺住職・精神科医)の法話に由れば
「日頃から善行に励むようにするということです。他を思いやる、他に感謝する。他人の指摘は素直に受け入れ、改善していく・・・などなど。「悪を断ち、善を修する」という、仏戒のみ教えに従って日々を過ごす中で、私たちの仏性は磨かれ、きれいになっていくのです」

                                   (おわり)