青大将とAYUの対峙に After you を考え故郷の少年時代を思い出すAYU の巻き

2024年03月18日 432  kumanoayu 


写真 ① 雨に降られ自宅静養のAYU は故郷のことをしみじみと思い出すので有った。
       写真は熊野の山に雲海現る。


 昨日17日はその前日に引き続きサラリーマン時代と同様の、比較的朝は早い時間に起きて普通にさっさと食事を済ませ、最寄りの「高槻市営バス停」に向かった。最寄りなのでこの老人の足で普通の速度で歩いて約分の所要であるので「おかげ様で至近な距離です」と言っても差し障りないであろう。


自宅の東隣の大きなお屋敷を 2 軒通過すると直ぐに稲作用の田んぼに出くわす。幅員の狭いその畦道をさらに東へ約 100 mほど歩くとバス通リに出る。


この街(村みたいなものであるが、、)に引っ越してきたころからこの畦道は舗装されていたと記憶している。


AYUが育った田舎の田んぼの畦道はおろか、幅員の狭い一般道路なども舗装など夢のまた夢、いわゆる典型的な未舗装の「田舎道」であったと云える。
昭和 25 年頃であるから、車と言えば自家用車を所持している家などは皆無に近かったのではなかろうか!


写真② AYUが育った田舎の山々、中央部は水田です。後ろの山は「日暮山」(熊野市)


1日 3本 のバス、雑貨店に配達に来る「日通」の車が 日に一度くらい。
診療所も警察駐在所のお巡りさんも、郵便局の配達員さんも自転車が花形の時代で有ったのである。


バスは木炭車と言って外の後部にその装置が設備されていて、時々薪を投入していた。火の粉が勢いよく舞い上がる光景をありありと思い出す。
トンネルの少ない道路事情の時代だから厳しい上り坂の途中ではみんな下車してバスを押して通過したものだった。木炭火力ではパワーが足りなかったのであろう!


写真③ 新緑に映える水力発電用のダム湖 / 七色ダム。


田んぼの畦道では蛙を狙った蛇が沢山いたものである。小さい蛇は蹴り倒したら退散したものだけれど、一丁前の大きな「青大将」になると少年のAYUを知ってか知らずか馬鹿にして悠然として道をどきやがらない!「After you」しないのである。この時代はこんな熊野の山また山の山奥の、電話加入者がお金持ちのお家2,3軒の時代であるから英国紳士のマナーなんてことは伝播して来ていなかったに違いない。


写真④ 話題の蛇/青大将(写真はネットからお借りしました)意図的に小さな画面で紹介
    しております。


アメリカ進駐軍のジープがたまに村役場に来ていたことを思い出すが、アメリカ人には英国紳士の伝統的マナーなんてことは、その時代にはまだ流れていなかったのでは無かったのかと思う。


その青大将は青二才の少年と見て生意気に泰然自若、意地でも道をどけようともしない。幼い少年だと分かっていたのであろうか。


こちらもここで引き下がったら明日からの生活に何かと支障が生じることであろうと考えると、簡単には引き返すわけには行かない。青大将を叩きのめすことが出来なくても、ここはひとつ痛い目に合わせて追い払っておかんと示しがつかないと決意する。


仕方が無いので少し引き返してその辺に落ちている棒切れなどを見つけて、いざ尋常に勝負に及ぶことになる。


写真⑤ 熊野市にある「丸山千枚田」は日本の棚田百選のひとつです。


最初のうちはぴたりとも動こうとしなかったが、そのうち根負けしたのか、青二才の坊主に気の毒だとでも思ってくれたのかよう知らんけど、そのうち田んぼの中に消え失せてくれた。「今のうちや!」と思って急いでその場を駆け抜けたことをありありと思い出す。


この時季はまだ彼らが出没するには季節的に少し早いが、近年まともに彼らの姿にお目にかかったことは無い。
田んぼに水が張られても蛙の鳴き声大合唱なども近年聞かなくなった。


こんな事を思い出しながら歩いているとあっという間にバス停に着いた。


                                  (おわり)


写真⑥ 熊野市の海岸 / 七里御浜(太平洋)